初金 イエズスのみこころ

2015年09月04日 23:01

毎月の第1金曜日は私たちにとってイエズスのみこころを讃え、観想する為に必要なミサが「初金」と呼ばれ大切にされています。17世紀聖女マルガリタ・マリア・アラコックにイエス様のご出現があり、直接の託け(ことづ)がありました。イエス様から贈られた12の約束というものもあるそうです。詳しい訳ではないので興味のある方はお調べ下さい。この中でイエスのみこころのご絵やご像を掲げて尊敬、言いかえるとイエス様のみこころへの信心、愛と信仰を日々の生活の中に持ち込む、ご絵やご像を生活の中に置き、拠り所とする、ということでしょうか、そうすることでイエス様はその家庭を祝福されるというのがあります。キリスト教芸術というものを新たに再出発する画家としてこんなに心強い直接的な約束があることは、私にとって何よりの喜びです。芸術とはこれこれこういうものだと主張する立派な方々とまるで異なることをしていても不思議と心に平安があるのはそういうことかもしれないと思います。

ルカ5章、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。・・・・・・古いものの方がよいと言うのである。」

世間に置きかえると古いものと新しいものが共に存在することが当然の世の中で、両者が共に上手に同調することができないことを指摘されているようです。若い人は古いものを毛嫌いし、古い人は若い人を認めないというよりも認めても自分たちが慣れ親しんだ状態の変化を嫌うということがあると思います。「むかしはよかった。以前はこんなことはなかった。」と現在が過去よりも悪くなったと嘆いているお言葉を耳にすることもよくあります。お話を伺っていると本当にそうだなぁとため息を共にしたくなることもあります。しかし同時によくなっていることもあるはずです。そのよくなっていることは新しいのでもうよく分からない、理解したいとも思わない、ということもあるでしょう。

などなど・・・・そんなふうに考えると私まで先輩方を非難しているかのようです。マタイの福音書にある同様の箇所の締めくくりはこうなっています。

マタイ9章「・・・・・・また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人はいない。もしそのようなことをすると、革袋は張り裂け、ぶどう酒は流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも保たれる。」

もちろんこれはイエス様の教えとこれまでの旧約の律法を基にした教えのことを言っているのだと分かります。キリストの新しい教えをこれまでの律法を基にしたカチカチに堅くなった革袋に入れても駄目だということです。新しい柔軟な革袋に入れることで両方が保たれる。ユダヤ教はユダヤ教としてキリスト教はキリスト教として。年をとった人は年をとった人がすべき考え方と行動規範を、若い人には若者としての取るべき姿勢があるということです。古いものをは新しいものへの理解と寛容に受け入れる姿勢を、新しいものには古いものから学び、感謝と尊敬の意を持って前進する姿勢を持つことが大切なのだと仰りたいのではないか、と世間に置きかえるとこのようにも想像できます。

更にこの中で、二つのたとえの前にあるもう一つのたとえ、気になるのは「花婿が取り去られる時が来る。そのとき彼らは断食するであろう。」です。イエス様はしばらくすると新しいものも古いものの良さを再発見し同調し始めるのだから、新しい芽を摘むような考え方をしてはいけないと戒めておられるのかもしれません。

年齢を問わず、先にあったものは後から来たものとの違いをあれこれ言いたがるものです。新しいものは新しくなった喜びで過去から学ぶことを必要だと感じる暇さえないかもしれないのです。

イエスのみこころは変わりませんが、聖書の解釈やミサの典礼は変わります。同じように芸術は時と人によって新たになるものだと考えられています。何よりその中に真理であるみこころがあるかどうかが肝心なところではないかと思います。